雑な倉庫
ある病室に二人の男性がいました。その病室は堅い、灰色のコンクリートの壁に囲まれており、小さな窓が一つあるだけで、他にはなんにもない、単調な部屋でした。
二人の男(サムとケディ)は病気でした。サムは病気がひどくて、自分で身動きをすることはできません。一日中ほぼ寝たきりです。ケディは、サムと比べれば少し症状が軽く、自力で上半身だけ起き上がらせることができました。
サムは一日の大半は部屋の天井を見てます。首も動かせないからです。毎日、同じ景色。同じ生活。サムはひどく退屈でした。でも、たった一つだけ。サムには一つだけ、楽しみがありました。それはケディの話です。ケディは時々上半身を起こし、窓から外を見て、そこから見えたものをサムに聞かせていたのです。
「公園で小さな子供たちが楽しそうに遊んでるよ。砂遊びしてる子や追いかけっこをしている子もいる。お母さんたちはベンチでおしゃべりしてるみたい。お父さんたちは仕事かな?僕らもいつか結婚して、可愛い子供ができるのかな。」
「今日はすごい綺麗な青空が広がってるよ。桜も明日あたり満開かもね。気の早い人たちが、もうお花見をしてる。僕らも元気になったら花見に行こうね。」
ケディの話を来る日も来る日もサムは聞いてました。
「ねぇ、いい匂いがしない?公園の前にあるパン屋さんが朝からパンを作ってるみたいなんだ。お客さんは開店前から並んでるよ。よっぽど美味しいんだろうね。 僕らの病気が治ったら一緒に食べに行こう。早く治るといいね。」
「聞こえるかい?小鳥が鳴いてるんだ。すぐ近くの大きな木に止まって鳴いてる。一羽じゃないよ。たくさん集まって、一緒にさえずってるんだ。外出の許可が出たら、その大木のところまで行ってみよう。近くで聴くとすごいんだろうね。」
ケディの話を聞いているうちに、いつしかサムは、自分で窓から外の景色を見たい、と思うようになりました。どんな素敵な景色が見られるんだろう。
そのためには、まずケディが邪魔でした。自分のベットの位置からでは、たとえ上半身を起こしても、見えないからです。だいぶ無理をすれば少し身体を動かせるようになった頃のある夜、ケディが熟睡してる時にサムはケディの点滴の針をそっと抜きました。
翌朝には、ケディは既に息をしてませんでした。看護婦がケデイの遺体を運ぶ時にサムは言いました。
「僕をケディが寝ていたベットに移動させて下さい」望みは叶えられ、ついに念願のベットに移動することができました。
サムは、緊張と期待で胸を高鳴らせました。看護婦が病室から出て行くのを確認した後、サムは痛みを我慢して上半身を起こしました。いよいよだ。サムは窓の外に目をやりました。
窓の外には、病室と同じ、堅く、灰色の無機質なコンクリートの建物が眼前に見えるだけでした。
単調な病室には今はサム、独りだけです。
あと二日で6月15日。私はいよいよ30歳になる。もう30代になるのかと思うと、私は憂鬱だった。幸せだった時代は、もう終わってしまったのかもしれない。
私は毎日、スポーツジムでひと汗流してから会社に行く。そのジムで、毎朝ニコラスに会う。ニコラスは79歳だが、鍛えた見事な体をしている。その朝、いつもどおり「おはよう」と声をかけたのだが、彼は私がふだんのように元気でないのに気づいた。
「具合でも悪いのかい?」
私は30歳代にさしかかって不安だと打ちあけた。私が彼くらいの年になったら、人生をどうふりかえるのだろうか。
「ニコラス、人生でいちばんいい時っていつだった?」
彼は即座に答えた。
「ジョー、きみの哲学的な質問に対して哲学的に答えよう」
「オーストリアで何ひとつ不自由のない子ども時代を送り、両親に守られていた。あのころが人生でいちばんいい時だった。学校にあがり、今の自分を作った知識を学び始めた。あのころが人生でいちばんいい時だった。
社会に出て就職し、一生懸命働いてお金をもらった。あのころが人生でいちばんいい時だった。
いまの妻と出会い、恋に落ちた。あのころが人生でいちばんいい時だった。
第二次世界大戦になり、私は生き延びるため妻とオーストリアから逃げた。北アメリカ行きの船の甲板で妻と無事を喜んだ。あのときが人生でいちばんいい時だった。
カナダに行き、二人で新しい生活を始めた。あのころが人生でいちばんいい時だった。
父親になり、子どもたちが成長するのを見守った。あのころが人生でいちばんいい時だった。
そしていま、ジョー、私は79歳だが、病気もせず、元気で、結婚したころと同じように妻を愛している。いま、この時が人生でいちばんいい時さ」
バスの乗客は、白い杖を持った美しい若い女性が慎重にステップをのぼってくるのをはらはらしながら見守っていた。彼女は手探りで座席の位置を確かめながら通路を歩いて、運転手に教えられた空席を見つけた。座席に腰を下ろすと、ブリーフケースを膝に載せ、杖を脚によせて立てた。
34歳のスーザンが視覚障害者になってから1年になる。誤診のために視力を失って、彼女は闇と怒りと苛立ちと自己憐憫の世界に突き落とされた。ひと一倍独立心の強い女性だったのに、残酷な運命のいたずらのせいで、ひとの助けを借りなければならないのが辛かった。「どうして、こんな目にあわなければならないの?」彼女は怒りに胸をつまらせて嘆いた。だが、いくら泣いてもわめいても祈っても、辛い現実が変わるはずもないことはわかっていた。視力は2度と回復しない。
以前は明るかったスーザンの心は、重い鬱の雲に覆われた。毎日をやり過ごすだけでも、苛立ちや果てしない疲労の連続だった。彼女は必死の思いで夫のマークにすがった。
マークは空軍の将校で、心からスーザンを愛していた。視力を失った彼女が絶望の淵に沈み込んだとき、マークはなんとか妻にもういちど力と自信を取り戻させよう、もういちど独立心を回復させてやろうと決意した。軍人であるマークは、扱いの困難な状況に対処する訓練を充分に受けていたが、その彼でさえ、これはこの上なく厳しい闘いになることを知っていた。
ついに、スーザンは仕事に復帰する決心をした。だが、どうやって職場に通ったらいいだろう?以前はバスを使っていたが、ひとりで街に出るなんてもう怖くてできない。マークが、毎日車で職場まで送って行こうと申し出た。2人の職場は街の反対側に分かれていたのだが。はじめ、スーザンは喜んだし、ほんのわずかなことにも大変な思いをしている妻を守ってやりたいというマークの気持ちもこれで満たされた。ところがしばらくすると、マークはこのままではいけないと気づいた。そんなことを続けるのはどう考えても無理だったし、負担が大きすぎる。スーザンはひとりでバスに乗ることを覚えなければいけないんだ、とマークは自分に言い聞かせた。だが、彼女にそう言うと考えただけで、彼はひるんだ。それでなくても頼りなく、怒りにさいなまれているのに。そんなことを言われたら、どうなるだろう?
マークの予想どおり、またバスに乗ると考えただけで、スーザンは震え上がった。「目が見えないのよ!」彼女は苦々しく答えた。 「どうすれば行く先がわかるの?あなた、もうわたしの面倒を見るのがいやになったんだわ」こう言われてマークの心は傷ついたが、しかしなすべきことはわかっていた。 彼はスーザンに毎日、朝晩いっしょにバスに乗ってやると約束した。 彼女がひとりで大丈夫と思うまで、どんなに時間がかかっても。
その通りになった。まる2週間、軍服を着て支度を整えたマークは、毎日スーザンの送り迎えをした。残った感覚、とくに聴覚を働かせて、自分の居場所をつかみ、新しい環境に適応する術をスーザンに教えた。バスの運転手ともなじみになり、彼女に気を配り、座席をとっておいてもらえるようにした。
そのうちに、スーザンも笑い声をあげるようになった。バスを下りるときにつまづいたり、書類が詰まったブリーフケースを通路に落としてしまうといった運の悪い日にすら、笑顔が出るようになった。
毎朝、2人はいっしょに出かけ、それからマークはタクシーでオフィスに向かった。車で送迎するよりももっと費用がかかったが、マークは時間の問題だと知っていた。スーザンはきっとひとりでバスに乗れるようになる。彼はスーザンを信じていた。 視力を失う前の、何があっても恐れずに立ち向かって、決してあきらめなかったスーザンを。
ついに、スーザンはひとりでバスに乗ると言いだした。月曜日になった。スーザンは出かける前に、夫であり親友でもあるマークの首に両腕をまきつけた。彼の誠実さと忍耐と愛を思って、スーザンの目に感謝の涙があふれた。 「行ってきます」。2人は初めて、べつべつに出勤した。月曜日、火曜日、水曜日、木曜日……。 毎日は無事に過ぎていき、スーザンの気持ちも、かつてなかったほど明るくなった。やったわ! 自分だけで出勤できるんだ。
金曜日の朝、スーザンはいつものようにバスに乗った。料金を払ってバスを下りようとしたとき、運転手が言った。「あんたはいいねぇ」スーザンは、まさか自分に言われたのではないだろうと考えた。いったい誰が目の見えない女性をうらやむというのだろう。この1年をやっとの思いで生きてきたというのに。 不思議に思って、彼女は運転手に聞いた。「どうして、いいねぇなんて言うんですか?」運転手は答えた。 「だって、あんたみたいに大切にされて、守られていたら、さぞかし気分がいいだろうと思ってさ」スーザンには運転手の言っていることが全然わからなかったので、もう一度尋ねた。 「どういう意味なの?」答えが返ってきた。「ほら、今週ずっと、毎朝ハンサムな軍人が通りの向こうに立って、あんたがバスを下りるのを見守っていたじゃないか。あんたが無事に通りを渡って、オフィスの建物に入っていくのを確かめているんだよ。それから、彼はあんたにキスを投げ、小さく敬礼をして去っていく。あんたはほんとうにラッキーな女性だよ」
幸せの涙がスーザンの頬をつたった。目には見えなくても、マークの存在がありありと感じられた。わたしはラッキーだ。ほんとうにラッキーだわ。彼は視力よりももっと力強いプレゼントを、見る必要などない、はっきりと信じられるプレゼントをくれたのだった。闇の世界を明るく照らしてくれる愛というプレゼントを。
くたくたママが店から戻り買い物袋をかかえてキッチンへ入った
待っていたのは八歳の息子
弟がやったいたずらを、しゃべりたくてうずうずしてた
「ぼくは外で遊んでて、パパは電話中だったんだ
そしたらあいつがクレヨンで、壁に落書きしちゃった
ママが書斎に張ったばかりの新しい壁紙にだよ
そんなことしたらママが怒るぞって言っといたよ」
ママはうめき声をもらして眉を寄せた
「あの子、いまどこ?」
ママは荷物を下ろして決然とした足取りで
末っ子が隠れたクローゼット目指して歩いていった
部屋に入ったママは、名字をつけて名前を呼んだ
その意味がわかった末っ子は、恐しさに震えあがった
それからの一〇分間、ママはわめき、怒鳴りちらした
あの壁紙は高かったのよ、せっかくお金を貯めて買ったのに
元通りにするのはたいへんなんだから
なんてことしてくれたの、いたずらにもほどがあるわ
叱れば叱るほど、腹の虫がおさまらない
ママはすっかり取り乱し、部屋から大またで出ていった
惨状を確かめようと、おそるおそる書斎に向かったママ
壁を見たとたん、目に涙があふれた
読んだメッセージがダーツのように心を貫いた
ハートで囲まれた「ママ、大好き」
その壁紙は、ママが見たときのまま残っている
まわりに枠だけの額縁が吊るされて
ママにとっての、みんなにとっての思い出の品
ときどき足を止めて眺める、壁の落書き